両親

早いもので、3月になりました。

父親の両親は小浜市出身、父親は東京の日本橋で生まれたと聞きました。その後開拓団で、満州に渡り哈爾濱の近くで生活していました。14歳の頃、お腹に手りゅう弾をまいて警備にあたっていました。今の日本では、とても考えられないことです。

冬は-20℃以下に下がる地域。手りゅう弾が冷えたお腹をさらに冷やしたと言っていました。

その後、ロシアが攻めてきて逃げ回ったと聞きました。父親は、ロシアに抑留され亡くなりました。

中国人に助けてもらいながら命からがら母親と子供4人一緒に舞鶴へ引き上げて来ましたが、母親はすぐに病気で亡くなくなりました。

逃げるのを手助けしていただいた、中国の方に感謝していると言っていました。まさに、二葉百合子さんの岸壁の母の世界です。

一歩間違えば残留孤児になって、私達が生まれてくる事もなかったと思います。父親は、今でも少し中国語が解るみたいです。

その後、一時宮津に住み小浜へ帰ってきたらしいです。両親が亡くなり、妹3人を嫁に出しそれから結婚したみたいです。

母方の祖母が宮津に住んでいたので、それを頼って宮津に住んでいたみたいです。その後舞鶴に変わり、最終的に小浜に引き取りました。父方の祖母も最終的には、面倒を見ていました。

私は、母方の曾祖母と父方の曾祖母は長生きしていたので面識があります。だから、父親の両親の顔は知りません。

一時、父親の祖父母の家に居候したが兄弟で引揚者住宅に移ったらしいです。

母親は、宮津市で生まれました。6人兄弟の上から2番目です。舞鶴よりも港は小さいが、宮津も空襲を受けたと聞きました。

機銃掃射や、戦闘機が落ちてきたと言っていました。食べるものがなく、草を食べたと言っていました。

食べれる草とか食べれるキノコ類は全く解りません。私なんかは、毒キノコを食べて中毒を起こすのが落ちでしょう。そういう意味で、生きる知恵は必要ではないのでしょうか。

宮津へ行くと祖父母から母親だけが、高校へ行かしてやれなかったと。それだけが心に残っていると何回も聞きました。

そんな父親も小学校しか卒業していません。私の家内も宮津出身、母親は家内の両親を知っていると言っていました。家内の母親からも、戦争当時の話を聞いたら一緒の事を言っていました。

殆ど苦労したことがない私たちの世代からすると、想像を絶する世界だったと思います。戦争世代の両親から比べると私ら世代と何が違うかと言うと、根性が違います。

私なんかチョット困難なことがあると直ぐ挫けますが、やったろかと言う精神力が違いますわ。

その後、どこで知り合ったかは知りませんが両親が結婚し3人の子供をもうけました。

両親とも、昔の苦労話はしたがりません。母親は、子供に苦労させたくないとよく言いますがホンマは子供には苦労させなあかんと思います。

私らの世代から見ても、あまいよなと思います。こんな時代がいつまで続くのかなと一抹の不安もあります。

家で商売を始めたので見る人がいるので、保育所にも入れてもらえず入れても近くの保育所ではなく、遠方の保育所に次男と2人で行かされました。そうして1年後に近くの保育園に編入が許されました。

3人兄弟学年は2歳ずつ離れています。まあよく兄弟喧嘩をしました。次男は上とも下ともやり、私は三男とは歳が4歳離れているであまりしませんでしたが。

障子・襖は原型をとどめていません。すぐに新調しても、ボロボロになります。それぐらい兄弟喧嘩はハデでした。

私の子供は、2人兄妹。歳は2歳離れていますが殴り合いの喧嘩は見たことがありません。そのため、障子・襖も綺麗です。

父親が、小さなボートを所有していたので魚釣りや海水浴にも連れて行ってもらいました。魚釣りは30分が限界、酔うのですぐ陸に揚げてもらいました。無免許でボートを操縦したりしました。昔の事なので時効ですわ。

小浜湾も、半島の先まで行くといやらしいほど透明度がありました。また、よく家族旅行にも連れて行ってもらいました。車酔いするのであまり行きたくはなかったのですが。

両親の根性を受け継いだのか、私と三男は小学校6年間一回も休まず皆勤賞をもらいました。熱があっても学校に行きました。今みたいに出席停止などもなかったですしね。

ドロクタ3兄弟だったため悪いことをすると、しょっちゅうブロックで囲まれた井戸部屋に監禁されて中々出して貰えませんでした。

3兄弟とも分け隔てなく東京の大学( 下二人は東京の予備校に通いました )を卒業させていただきました。一時、東京で3人で住んでいたこともあります。

そして、1992年の4月に次男・5月に私・6月に三男が、3ヶ月間に3人とも結婚しました。すべての費用両親持ち、大変な出費やったと思います。

一緒の時期に結婚したので、孫も似たような年齢です。各自2人ずつの6人の孫に恵まれました。

今の所、3人とも離婚せずに頑張っています。そうして3人とも、マイホームを持ちました。

次男だけ東京に住んでいますので子供も大きくなり、最近帰郷しないので実家で一族で集まる機会もなくなりました。

何不住なく育った、あまちゃん第一世代の私ら三兄弟・私の子供達はあまちゃん第二世代。私の子供は、このような出来事を全く知らない世代です。

今から十数年前、父親がロシアで亡くなった父親の所を見に行きたいと言うので家族旅行に合わせて父親を新潟まで連れて行きました。

そこから飛行機でロシアに渡り、亡くなった収容所跡を見てきました。父親としては、亡くなった場所を見てきて一区切りがついたのではないのでしょうか?

そんな両親も元気ですが、2人とも耳が遠くなりました。今の所、何も恩返しが出来ていません。両親の口癖は、他人に迷惑をかけるな。私の子供達も、人の痛みの解る人間に子育てしてきたつもりです。

昨今の経済状況下から両親の真似は出来ないので、子供を予備校に行かせることはできません。

子供2人が、大学に通うようになるので両親の苦労が少し解ってきたような気がします。私からすると、偉大なる両親を中々追い越せる日が来ません。両親の苦労を爪の垢を煎じて飲まなければなりません。人間て、死ぬまで努力しなければならないでしょうね。